街角こんぱす
かつて「世界一」とも謳われた加治川の桜並木をご紹介!
かつて「世界一」とも謳われた加治川の桜堤。
地元の人々の誇りであり、宝物だった桜堤は、悲しい歴史を乗り越え、長い年月をかけて現代に蘇りました。
その物語をご紹介します。
飯豊山系に源を発し、新発田市郊外を抜けて日本海へと注ぐ加治川。
江戸時代以前からその流域では水害が絶えず、新発田藩は治水開田を施策方針として掲げて河川改修に力を尽くしてきた。
しかし、明治期に入っても、福島潟一帯が何日も冠水するほどの被害が続く。
地元住民の願いを受けて、1908(明治41)年、ようやく加治川分水路の建設が始まり、1913(大正2)年に完成した。
この分水路の完成と大正天皇の御即位を記念して、翌1914(大正3)年、加治川の両岸に約6,000本の桜が植えられた。
戦後には物資不足を補うために一部が切り倒されることもあったが、分水門を中心とした約12kmにわたって4,500本余りの桜が咲き誇るようすは
錦絵のように美しく、長堤十里の桜の一大名所として親しまれたという。
桜並木と加治川の流れ、残雪をいただいた飯豊山のコントラストは実にみごとで、当時の白黒写真を通してさえ、その美しさが胸に響いてくるようだ。
特に、戦後から昭和30年代にかけては、羽越線橋上に臨時停車場が設けられ、新潟駅や新発田駅からはバスが列をなすなど、
全国各地から大勢の花見客が訪れた。
舟で川下りを楽しむ人、河川敷で宴に興じる人、闘鶏や闘犬などの見世物や、お囃子や芸者衆まで登場し、それは賑やかな春の風物詩だったという。
三船敏郎主演の映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」の冒頭にも加治川の川下りのシーンが出てくる。
これは史実に基づくもので、当時、山本五十六をはじめ多くの著名人が花見に訪れた。
当時の人々にとって、加治川の桜はかけがえのない宝物であり、花見は、雪国の遅い春の訪れを祝う祭りだったことが伝わってくる。
しかし、昭和41、42年と続く大きな連年水害がこの桜堤を襲う。堤防は決壊し、多くの家屋や道路が壊され、尊い人命が奪われた。
そして、洪水の後、川幅を広げる河川改修が行われることとなり、美しい桜並木は無残にも切り倒されてしまった。
桜に対する人々の想いは強く、「かつての桜並木を取り戻そう」という市民の声が高まりをみせるなかで、もう一つ、桜にとって不利なことが
重なった。
2度にわたる洪水の被害を受けた住民が国と県に対して起こした日本で最初の水害訴訟、“加治川裁判”である。
この裁判によって国や県もガードが固くなり、「桜を植えさせてほしい」という市民の願いに対して、頑なに「ノー」と言い続けることになった。
しかし、粘り強い活動を続けた結果、平成元年、ついに国の「桜堤モデル事業」として認定を受け、桜の苗木が植えられることとなった。
今では、約14.5kmにわたって2,100本余りの桜が植えられ、みごとな桜並木が甦った。
往時にくらべればまだ3分の1にすぎないが、「加治川を愛する会」、「加治川さくらの里づくりの会」などをはじめとする多くの人々の手で、
桜並木を守り、育てる活動が続けられている。
「街角こんぱす」2023.4月号掲載記事より
エフエムしばたでも、「中村博和のしばためぐり」第1回で加治川の桜の歴史をご紹介します。併せてお楽しみください。
放送/4月3日(月)15:00~15:30