街角こんぱす

新発田の市花、「あやめ」の歴史をご紹介します。

2023.6.9

新発田の初夏を彩る「あやめ」の花。

珍しい貴重な品種をこの地にもたらした企業家と、 

その苗を守る増やすことに力を注いだ人々と、

美しい花を咲かせるために世話する花守たち―。

多くの人々の手によって守り継がれてきた「あやめ」の物語をご紹介します。

日本四大あやめ園の一つにも数えられる、新発田市五十公野(いじみの)公園あやめ園

あやめは、新発田市の花にも制定されている、市民にとってはなじみ深い花です。
1978(昭和53)年、五十公野に造られたあやめ園では、開園当初6000株だったあやめが、現在は300品種、3万株(60万本)にまで増え、
毎年、訪れる人々を楽しませてくれます。

総面積1.8ヘクタール、植栽面積0.7ヘクタールという広大な敷地を管理するのは、新発田市維持管理課の職員の方々です。

「あやめは園芸植物なので、手をかけてやらないとうまく育ちません。3~4年後ごとに株分けしないと株が古くなって育たなくなりますし、
毎日のように見てやらないと機嫌が悪くなるんですよ」

美しいあやめは、手のかかるお姫様なのですね。

毎年、開花時期には多くの感人々が訪れる

あまり知られていないことですが、あやめは1本の茎から3~4回、順番に花を咲かせます。
あやめ園では、シルバー人材センターの方々の協力を得て、次の花がきれいに咲くように、一番花が終わった後、2番花が終わった後というように、
咲き終わった花を摘み取る作業を行っているということです。

ここでは「花ショウブ」「カキツバタ」などあやめの仲間全体を含めて「あやめ」と表記しています

「新発田のあやめ園のあやめは、特別なものなんですよ」

市内に店を構える種権種苗店の元社長、故仁木輝雄氏は、かつて誇らしげに語っていました。
実は、新発田のあやめは、伊勢神宮と明治神宮からいただいた貴重なあやめなのだそうです。

新発田城は、別名「あやめ城」とも呼ばれています。
かつて、城周辺は湿地帯であやめが群生していたことに由来しますが、戦後、新発田城のお堀には蓮や雑草がはびこり、
あやめの姿は見られなくなってしまいました。

見かねた当時の青年会議所理事長だった佐久間栄一さんら有志メンバーが、
「あやめ城と呼ばれながら、あやめがないのはおかしい。あやめを復活させよう」と声を上げました。

「戦時中はお城の前に練兵場があり、慰問に行けない家族が遠くから演習を見ていたものです。そんな光景を思い出して、最初はお堀の脇に
桜並木でも植えようと新潟競馬場から馬糞を運んできて、スコップですくって肥料にしました。あやめの復活を考えたのは、その後ですね。
近所の種権種苗店に相談したら、瓢箪から駒のような話になったわけです」と佐久間さん。

新発田城のお堀にあやめ園を造るために工事を進める

当時の種権種苗店社長であり、輝雄さんの父にあたる仁木岩雄さんは、明治神宮の植物の管理や、「お田植え式」と呼ばれる天皇が田植えをされる
儀式のお世話を務めていたといいます。

その縁で皇居から許可をいただき、明治神宮と伊勢神宮から1968(昭和43)年~1972(昭和47)年の4年間で計260品種のあやめを譲り受けることができました。

譲り受けたあやめの苗をお堀に植える青年会議所のメンバー。昭和43年頃

「通常なら民間には下せない貴重なあやめが、新発田へ根付くことになったわけです」と輝雄さんは感慨深げに話すと、大きくひとつ息をついて、「ところがですよ」と続けました。

「いただいた苗をさっそくお堀に植えたところ、珍しい貴重なあやめだということで盗まれてしまったんですよ」

「これは大変だ」と自衛隊の連隊長に陳情し、自衛隊の敷地の中にあやめを増殖するためのあやめ園を造っていただき、そこで苗を保護しながら
品種を増やし、1982(昭和57)年に現在の五十公野へと移したのだといいます。

昭和40年代は自衛隊の駐屯地内で栽培されていた
幼稚園児が遠足で訪れたり、茶会が催されたりするなど、市民の憩いの場となっていた

伊勢神宮の伊勢菖蒲と明治神宮の江戸菖蒲の両方が植えられているのは、新発田のあやめ園だけなのだとか。

新発田の特別なあやめを、ぜひ今年もぜひご覧ください。

「街角こんぱす」2014.6月号掲載記事より(一部改編)

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